古い町並 郡山市湖南町三代 福島県

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  • Опубликовано: 20 окт 2024
  • 郡山市湖南町三代は中通り中部、猪苗代湖の南、北流して猪苗代湖に注ぐ舟津川中流域に位置する。
    江戸期は会津藩領。村高は文禄3年(1594)の蒲生高目録で467石余、文化15年(1818)の村日記では895石余、「天保郷帳」915石余、「旧高旧領」893石余。正徳5年(1715)の家数126・人数509。明治13年の家数90・人数542とある。
    古くから中通りと会津若松を結ぶ白河街道の宿駅として栄えた。宿には本陣・問屋・旅籠屋が並ぶが、「東講商人鑑」では本陣問屋二瓶権右衛門、問屋窪小谷覚右衛門・二瓶直治、商人定宿松屋伝右衛門とある。この宿を利用した大名は会津藩主・越後の新発田、村上藩主などで、人馬は福良村、勢至堂村へ継送りした。
    寛永年間(1624~44)の戸数80軒の半数は旅籠や茶屋で、残る半数が農業兼荷駄賃業だったとされている。三代宿は安政4年(1857)の大火で両側30軒余りが焼け、再建時に両側とも一間づつ退き道幅を広げた。
    今町並は国道294号線の両側に展開している。道が直角に曲がった所に本陣があったが、今は建物が建て替わって昔の面影は無くなっている。この鍵型に折れ曲がった辺りを中心にして、かっての屋号を書いた立札が家々の門口に建てられている。殆どは旅籠屋の屋号と思われるが、中には「御番所」と書かれた立札も揚がっていた。町並の殆どの家屋は妻を道路に向けている。かってはこれらの家々は茅葺家屋であったのだろうが、今は一軒も茅葺家屋は見られなかった。また、今の道幅から見て道の中央を小川が流れていたのだろうと思われる。

Комментарии • 2

  • @朱鷺-i1h
    @朱鷺-i1h 3 года назад +1

    湖南町にすんでるの?

    • @七ちょめ
      @七ちょめ  3 года назад

      見て頂いて有難うございます。湖南町でなく、私は大阪に住んでいます。